石見の伝説と歴史の物語−261(享保の大飢饉)

97.享保の大飢饉

97.1.享保の時代

米将軍とよばれた徳川吉宗(32歳)が紀州から入って第8代将軍職をついだのは享保元年(1716年)のことだった。

徳川吉宗

 

当時は、国内が深刻な不況にみまわれて幕府財政もゆきづまり、旗本、御家人に支払う給米にもこと欠くというドン底の年であった。

その上物価は高騰し、生活は苦しく国民は塗炭の苦しみに喘いでいた。

将軍となった吉宗にとって、早急の解決を迫られた、容易ならぬ問題であった。

そして、綱吉以来の側用人政治により政治の中枢から閉め出しを食って来た譜代門関層の不平不満が昂じており、爆発寸前であった。

いわゆる享保の改革は、これらの解決をはかることであった。

 

将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人間部詮房新井白石を罷免したが、新たに御側御用取次という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続している。

 

享保の改革は、江戸幕府財政再建を目的とした一連の改革である。

主な内容は、年貢収入を増やすための「上米の制」や「定免法」の採用、幕府の支出を抑えるための「相対済し令」、そして幕府の財政を健全化するための貨幣改鋳などである。

 

  • 上米の制:大名に領地の石高に応じて米を献上させ、その代わりに参勤交代の期間を短縮した。
  • 定免法の採用:検見法に代わり、一定期間の年貢率を固定することで、米の収穫量に左右されず安定した収入を確保した。
  • 相対済し令:金銭の貸し借りの裁判を減らすため、当事者間の話し合いによる解決を優先させた。
  • 貨幣の改鋳:流通している貨幣を回収し、金の含有量を減らすなどして新たな貨幣を鋳造し、再流通させること。目的には、傷んだ貨幣の交換、幕府の財政難を補うための「改鋳益金」の獲得、経済規模の拡大に対応した貨幣量の調整などがある。改鋳によって物価の高騰が起こることもある。



吉宗は当初、倹約による財政緊縮を重視した ため、幕府はもとより諸大名も財政支出の削減という強力なデフレ政策を実行した。

その結果、 江戸の経済は深刻な打撃を受け、街は火が消え たようになったといわれている。

物価も下落傾向をたどったが、「諸色高の米価安」と称され るように、物価が高騰しているなか米価の下落が著しかった。 年貢米の売却で生計を立てていた武士階級の場合、米価安は直ちに所得の低下を意味したため、 米価の独歩安は彼らの生活を圧迫した。

 

「諸色高の米価安」

「諸色高の米価安」とは、米以外の物価が高騰している一方で、米の値段が安い状態を指す江戸時代の経済状況である。

これは、農業生産力の向上による米の供給過剰と、武士の俸給が米で支給される「石高制」への依存が原因で、武士の収入減と支出増を招き、幕府財政を圧迫する要因となった。

 

吉宗は、米価の引き上げを狙いとして商人に米の買い上げを強制するなど、 各種の米価対策を講じた。

しかし、米の増産率が人口増加率を上回るという需給状況もあって、 期待した効果はもたらされなかった。

そこで、金銀貨の改鋳による通貨量の拡大を図ったのである。

吉宗は、元文元年(1736年) 改鋳を決断した。

 

享保時代の浜田藩

既述したように、この享保の大飢饉を予見させる様な事件が起こっている。

享保6年から8年にかけての「春定用捨訴願騒動」、享保10年の「敬川のお鶴」である。

そして、ついに享保16年に大飢饉が発生する。

 

97.2.享保の大飢饉

享保の大飢饉(1732年)において、石見国では西日本一帯でのウンカ(害虫)による稲の壊滅的な被害を受け、甚大な被害を被った。

 

被害の概要

発生原因: 享保17年(1732年)は冷夏や干ばつなどの悪天候に加え、西日本一帯で稲の害虫であるウンカが大発生したことにより、米の生育が不良となり、壊滅的な凶作となった。

全国の被害: 幕府が把握していたデータによると、全国で約1万2000人の餓死者、200万人以上が飢餓に苦しんだと言われているが、実際にはさらに多かったと推測されている。

石見の特徴: 石見を含む西日本の多くの藩(46藩に及ぶ)では、平年の収穫量の半分以下、甚だしいところでは2割以下の収穫しか得られなかったという。 



享保の大飢饉 桜江町江尾村の当時の状況(江尾村・長谷川嘉兵次・諸事覚書より)

 

享保十七年)四月、五月はさいさい雨降り、五月二十八日より日照りになり、六月中雨降り申さず候大分日焼けなす。

麦作ことの外悪く十三、十四日より稲少しづつ赤くなり、虫諸作につき申すもの叢雲の如く稲等実見せ申さず候て七月十八、九日までに大分稲は莚(むしろ)生えたる如く中稲迄なり、扠(さ)て晩稲は穂に出で申さずそのまま秋のちがやの如く赤くなり村里により中稲は種もあり晩稲には少しも種無之候笹の実大分なり惣じて山筋三里四方程の間なり、但し実は唐黍にも似たり九月より処々蕨、いのこ掘り申より不限候、右様子公方様御被為及聞西方方肌人為御尼抱御米大分御回舟被為成百日の外に地方より願次第に御貸被為成候

 

・・・御米丹後米にて米出来も拵もよく計欠も無之然共願書書出申す村は半分方に而候

・・・十月頃より処々飢死村大分なり然る処七月九日より十月霜月、日悪敷久久雨降り其上霜月十五日より大雪ニ而猶以いたみ申候由・・・浜田にては御参勤年彼是に付冬春御尼抱も不相成、御領方他国より余分に飢死人有之然所に明丑(十八年)六月江戸家老岡田本馬様御下向、御見あけとして弐千石被遺諸人祝申ものに候、且又、此の丑の麦作殊の外悪敷候・・・此年麻不出来なり、殊の外、ほうじょう虫付候 麻によらず諸作へ付申 今年迄五年ほうじょう春秋わき中候

(江尾村・長谷川嘉兵次・諸事覚書)

 

97.3.徳川実紀

以下「徳川実紀」より、享保大飢饉に関する記事の一部を抜粋して記す。

 

享保17年12月29日 

(賑救飢民)

此月留守居作事小普請奉行に令せらるゝしは。今年西國中國邊の田畝蝗災にかゝりし公料の農民等には食糧を賜ひ。私領には金恩貸ありしにより官費尤も多し。よて(よって)来年は営築并に修理くはふる事停廢せらるべし。さりがたきは撿點のうへ命ずべければ。かねて其旨心得べしとなり。

(今月、留守居・作事・小普請を兼任する奉行に、今年西国、中国辺の田畑の蝗の被害救済に官費が大量に使われたため、来年は建物の新築や修理を中止するよう命じられた。どうしても必要な場合は、役人の検査の上で許可する。)

 

(令諸大名賑救飢民)

又西國四國中國邊の諸大名に令せらるゝは。領内蝗災にかゝり。農民等飢餓にも及ぶべきやは御沙汰に及ばれき。凶年の備へは。國主領主かねて心得べきは勿論なり。されど今年の災は。ことに夥しきこと故。地頭の力にも及びがたきよし聞ゆ。よて農商の中たりとも。分限に應じて賑救うし。來春麥熟(むぎうらし:麦がうれ、刈入れを待つ頃の余暇)迄の中うへに及ばざるやう心いるべし。

(西国、四国、中国地方の諸大名へ。領内で蝗害が発生し、農民が飢餓に陥る恐れがある。対策を講じよ。国主や領主は平素から凶作に備えるべきだが、今年の災害は甚大で、領主個人の力だけでは対処できない。農民や商人も、財産や能力に応じて被災者の救済に協力せよ。

この旨領主地頭をはじめ。土人まで相互に心を用ひ。飢民をやしなはゞ。餓死のもの多かるべからず。もし飢民多からんには。其地方の罪たるべきにより。いづれも怠りなく命ずべけれど。猶つばらなる(詳しい)事は。勘定奉行より達すべければ。其旨心得べしとなり。又同じ事により。大阪より官廩(かんりん:官の米倉)の米を其國々へつかはされ賣拂はしめ。かつ金をも恩貸せられば。米は領主より買もとめ。飢民等に頒布すべし。災にかゝりし各國につかはさゝ賑救の米額。國主地頭のはからひならずしては事調ふべからず。

(領主、地頭、そして土地の人々は、互いに協力して飢えた民衆を養い、餓死者を減らすべきである。飢饉が深刻な場合は、その地方の責任(罪)となるため、救済を徹底する。勘定奉行から詳細な指示が下されるので、それを確認する。

大坂から官の米蔵の米を各国の国主や地頭に送り、売り払わせる。また、資金も恩貸し(無利子貸付または下付)されるので、その金で米を領主の側で買い求め、飢えた民衆に分配する。

災害に見舞われた各国への賑恤(しんじゅつ:飢饉の際の救済)の米の量は、国主や地頭の采配が必要である。)

そのゆへは。公料の地は食糧の額代官等査撿し。日數多少に應じて差あり。されば私領も領主より米買とり。飢民の数にしたがひはからはずしては。衆民に普くおよぶべしともおぼえず。もし官のはからひのみに打任せば。賑救の詮あるべがらず。

(幕府直轄領では、代官が食糧の量を調査し、飢餓状態の日数に応じて支給量を調整している。私領でも、領主が自ら米を買い上げ、飢えている人数に応じて対処しなければ、救済は全領民に行き渡らない。官の対応だけに任せきりでは、適切な賑恤の効果は得られない。)

來秋収納以後に至り。拂米の價納ん事をこふよし聞ゆ。是は飢民等がみづから買求むる事のやうに心得しと見えたり。極貧ものいか程日をふるとも。己が力にてはもとめがたかるべし。またみだりにたやすく買得んには。食糧乏しからぬものも買とり。かへりて飢民の手に落べからず。

(来秋の収納以降、払米の代価を納めるよう求めるという話がある。これは、飢民が自ら米を買えると誤解しているようだ。極貧者は、いくら頑張っても米を手に入れることはできない。また、領主が簡単に米を買えるようにすれば、食糧に困っていない者が買い占め、飢民の手には渡らないだろう。)

領民は領主のはからひによて。凶年賑救すべき事は勿論なり。されば今年の事は。國中普く災にかゝりたれば。たとひ金銀の心がまへしたらんにも。隣國ともに米不足なれば。官より其地に米つかはされ。そがうへにも領主に金を恩貸せられ。百日を限り米價上納すべしと仰出されば。此うへは領主のはからひのまゝなれば。來春成熟までの中。飢民多からざるやら心いるべしとなり。

(領主は凶年の領民を救済すべきだ。今年の凶作は全国に広がり、隣国も米不足で米の入手は難しい。幕府は被災地に米を供給し、領主に金を貸した。領主は百日以内に返済しなければならない。幕府の支援により、来春の収穫期までに飢える民が減ることが期待されている。)

 

(蝗災地高札)

又同じ事により。蝗災にかゝりし國々に高札を建らる。其文にいふ。今年五畿内。四國。中國等に至るまで。蝗災により。公料の農民等には糧米恩貸せられたり。とりつゞきがたきものあるべければ。其地にも米穀金銀等貯ふものは。力に應じて合力し。あるは貸與ふべし。はた米穀金銀はたくはへずとも。並々に生産たつるものは。飢民同様に食物省略し。その餘をもて飢民に施し。あるは貸して。餓死の者すくなきやう扶助すべし。同國たりとも。其所により災にかゝらず。村民糧米乏しからずとも。かゝらんときは。里正(庄屋、村長)等より賎民に至る迄。飢民とおなじく食物省略し。あまりあらば近郷の飢民に恩施し。あるは貸しあたへ。猶餘りあらば貯蓄せず賣出すべし。今年幸に災をまぬがれしとて。近隣の難困を見ながら。常のをことく省略もせざらんは。冥理のおそれもあるべし。年により豊凶ある事なれば。もし己が郷里災にかゝらんときは。他村の合力を受飢をしのぐべし。こたび他を疎略になさば。こなた災にかゝりしとき。他も又をろそかにすべし。大凶の年は國々互に相保ざれば。とりつゞきなりがたき故。この旨よく心し里正等指揮し。郷中にていさゝかづゞも財をあつめ。飢餓せる村人に合力し。又は貸し興ふべし。朝夕の食糧さへかくなさんには。まして酒餅麺類等の費あるべからず。すべて物をしめ質かたく停禁たるべし。この旨各村に命じ。賑救せしものあらば。里正等おこたりなく査撿し。代官并に所属のもとに。其姓名申出すべしとなり。又市井に令せらるゝは。府より上方へ運米の事。今よりのち町奉行に断り。浦賀奉行の證状もて通船せしむべしとなり。

(蝗災で困窮する人々への支援を促す。米や金銭を蓄えている者は困窮者に分け与え、余剰分は市場で流通させるよう呼びかけている。また、豊作でも近隣の困窮者を助けるよう、相互扶助の重要性を説いている。内容は次のとおり。

  • 蝗災にあった国々では、領主が年貢を納めている農民に食糧用の米を貸し与えた。領地が取り継ぎしにくいものにならないよう、それぞれの土地にも米穀や金銀などを貯蔵している人は、力に応じて困窮者に協力・援助したり、貸し与えたりすべきである。
  • 自分の土地に米や金銭を蓄えている人は、力に応じて困っている人々に分け与えたり、貸し与えたりせよ。米や金銭を蓄えていない人も、並程度の生産や生活を営んでいる人は、飢えている人々と同じように食事を質素にして、余った分を飢民に施したり、貸したりして、餓死する者が少なくなるように助け合おう。
  • 同じ国(地域)内でも、場所によっては災害に見舞われず、村民の食糧が不足しないことがある。そのような時は、里正のような指導的立場の人から身分の低い民衆に至るまで、皆が飢えている人と同じように食物を節約しよう。
  • 余剰の食糧があれば、近隣の飢民に分け与えたり、貸し与えたりして恩恵を施そう。それでもなお余りがあるなら、貯蔵しておくのではなく、市場に売却して流通させること。
  • 今年は幸運にも災害を免れたからといって、近隣の困窮を見過ごしながら、普段通りの生活を送って節約もしないようでは、天罰を恐れるべきである。
  • 豊作・凶作は年々変わる。自分の村が災害に見舞われたら、他村から助けを得て飢えをしのぐ。今回他村への協力を怠ったら、自分の村が災害に見舞われた時、他村も協力を怠るだろう。大凶作の年は、国々が互いに助け合わなければ存続できない。里正などが指揮を執り、村中で少しずつ財産を集め、飢餓に苦しむ村人たちに協力したり貸し与えたりしよう。朝晩の食事の食料すら不足しているなら、酒や餅や麺類などの費用は出せない。名主や組頭などの村役人は、検査を怠らず、代官とその役人に氏名を報告し提出する。)

 

享保18年正月25日

(下民蜂起襲米商高間傳兵衛)

此ころ米乏しく。下民艱困することかぎりなし。これ米商高間傳兵衛といへるもの。多く府内の米をかひ置によれりとの流言をこり。二千人近くも黨をむすび。今夜傳兵衛が家を打こぼち。財寶をくだきて。前なる川へすて騒擾しければ。町奉屬吏等をはせて漸しづめたり。のちに擾乱せし魁首三人をとらへてつみせらる。

米不足で米価が高騰した際、庶民の間で米価高の原因は徳川吉宗に協力し、米価の安定に尽力していた米商人の高間伝兵衛が米を買い占め、米価をつり上げようとしているという噂が立った。

そして、享保18年正月に高間伝兵衛の自宅を1700人の庶民が襲い、家材道具や米俵等を川に投げ入れるなどした。これが江戸時代最初の打ちこわしとされている。

幕府は打ちこわしに関わった中心人物数人を流刑にした。

 

享保18年正月晦日

(米價騰貴賎民苦飢餓山陽西海尤甚)

米價いよ~湧貴して。賤民飢凍に及ぶこと少からず。よて府内の商工等にも米五萬苞(米俵)を散じて。男に二合。女に一合とさだめてにきはさる。

すべて山陽西海四國等にて。餓死するもの九十六萬九千九百人とぞ聞えし。

米価が騰貴して、賎民が飢餓や凍えに苦しんでいる。そこで、江戸市中の商工業者にも米5万俵を、男に二合、女にー合を与えることとする。

山陽・西海・四国等で96万9千9百人の餓死者がでたとある。

 

 

 

<続く>

石見の伝説と歴史の物語−260(寛永の大飢饉)

大飢饉

天明の大飢饉


江戸時代は長期にわたる冷害・旱魃・水害などの異常気象や害虫の異常発生、病害、火山噴火などでの凶作の連続による飢饉が数多く起こっている。

その内、被害の甚大であったものを、江戸四大飢饉という。

「江戸時代の四大飢饉」として知られる飢饉は、多くの場合、以下の4つをさす。

1.寛永の大飢饉寛永19年(1642年)〜寛永20年) 将軍:徳川家光
2.享保の大飢饉享保17年(1732年))  将軍:徳川吉宗
3.天明の大飢饉天明2年(1782年)〜天明7年)  将軍:徳川家治
4.天保の大飢饉天保4年(1833年)〜天保10年)) 将軍:徳川家斉

 

石見においては、17世紀後半(寛永年間(1624年から1644年))からほとんど毎年のように大小の水・早・風・虫損などが記録されている。

とくに18世紀前半の宝永(1704年~1711年)から享保期(1716年〜1736年)、1980年代から1990年代にかけての天明、寛政期、19世紀前半の文化・文政時代(1804年~1830年)から天保期(1831年〜1845年)。

18世紀後半の弘化(1845年〜1848年)、嘉永(1848年〜1855年)、安政1855年1860年)期などに集中的に災害が頻発し、文字通り息つく暇もないようである。

「天災は忘れた頃にやって来る」というが、ここでは「忘れないうちにやって来る」年中行事のような繰り返しでさえある。

 

96.寛永の大飢饉

96.1.寛永の時代

元和9年(1623年)7月徳川家光が20歳の若さで第三代江戸幕府将軍となった。

その1年後に元号寛永に変わった。

徳川家光


この時代は、文化面では「寛永文化」が開花し、貴族文化と庶民文化が融合した華やかな時期であった。

特に、京都を中心に公家と町衆による文化活動が盛んで、俵屋宗達本阿弥光悦といった芸術家が登場している。また、建築では日光東照宮桂離宮が代表的なものである。

寛永時代は、江戸幕府による支配体制が確立(武家諸法度の改正、参勤交代の制度化)され、日本の政治・社会が安定期へと向かう過渡期であり、特徴的な文化が花開いた時代と言える。

一方では寛永17年(1640年)〜寛永19年(1642年))頃の全国的な冷害と凶作が原因で全国的に甚大な被害が出ており、寛永の大飢饉と呼ばれている。

江戸初期においては慶長から元和年間にもしばしば凶作から飢饉が発生しているが、そのなかでも最大の飢饉である。島原の乱とともに江戸幕府の農政転換にも影響した。


96.2.飢饉の概要

寛永19年(1642年)前後に最大規模化するが、それ以前から兆候は存在していた。

島原の乱が収束した寛永15年(1638年)頃には、九州で発生した牛疫が西日本に拡大し、牛の大量死をもたらした。寛永17年(1640年)6月には蝦夷駒ケ岳が噴火し、降灰の影響により陸奥国津軽地方などで凶作となった。

寛永18年(1641年)に入ると、初夏には畿内、中国、四国地方でも日照りによる旱魃が起こったのに対し、秋には大雨となり、北陸では長雨、冷風などによる被害が出た。

その他、大雨、洪水、旱魃、霜、虫害が発生するなど全国的な異常気象となった。

東日本では太平洋側より日本海側の被害が大きく、これは後の天保の大飢饉に似た様相であるという。

当時江戸幕府では寛永通宝を発行して貨幣の統一を図っていたが、過剰鋳造に市場への流出に加えて不作による物価高騰で銭の価値が急落し、同年12月には鋳造の全面停止に追い込まれ、同時に公定相場での寛永通宝の買い上げや東西間の交通の維持のために東海道筋などの宿場町の支援に乗り出している。

不作はさらに翌19年(1642年)も続き、百姓の逃散や身売など飢饉の影響が顕在化しはじめると、幕府は対策に着手した。

同年5月、将軍徳川家光は諸大名に対し、領地へおもむいて飢饉対策をするように指示し、翌6月には諸国に対して、倹約のほか米作離れを防ぐために煙草の作付禁止や身売りの禁止、酒造統制(新規参入、在地の酒造禁止および都市並びに街道筋での半減)、雑穀を用いるうどん・切麦・そうめん・饅頭・南蛮菓子・そばきりの製造販売禁止、御救小屋の設置など、具体的な飢饉対策を指示する触を出した。

これは、キリシタン禁制と並び、幕府が全国の領民に対して直接下した法令として着目されている。

またこうした政策は、後の江戸幕府における飢饉対策の基本方針とされるようになる。
なおこのとき、譜代大名を飢饉対策のために、領国に帰国させたことがきっかけとなって、譜代大名にも参勤交代が課せられるようになった。

寛永19年末から翌20年(1643年)にかけて餓死者は増大し、江戸をはじめ三都への人口流動が発生した。

幕府や諸藩は飢人改を行い、身元が判別したものは各藩の代官に引き渡した。

また米不足や米価高騰に対応するため、大名の扶持米を江戸へ廻送させた。3月には田畑永代売買禁止令を出した。

(「田畑の売買禁止令」については、第237回(農村統制)にて既述)

 

当時の史料(例)

<徳川実記>
寛永19年2月から度々大飢饉に陥っていることに触れている。

  • (二月)廿八日・・中略・・すべてこの月より五月に至るまで。天下大に飢饉し餓莩(がひょう:餓死した人の死体、または餓死者のこと)道路に相望む。また身に一衣覆ふをもなし得ず。古席をまとひて倒れふすもの巷にみちたり。よて(それゆえ)町奉行をして各その郷里をただし。領主代官に命じ飢者をたすけてその故郷にかへさしめ。その外は市中に假屋を設け。日暮粥をつくりて飢者に施行せられしとぞ。

 

寛永19年5月に幕府は各地の代官を任地から呼び寄せ、飢饉に関する実状調査を行っている。

  • 廿三日武蔵。美濃。遠江。伊勢。駿河。上總。下總。信濃の代官をめして。農民難困のさまを諸老臣募問す。

 

<オランダ商館日記>

大阪では常食である米の値段が甚だ高く餓死するものが多いと記している。

  • (七月)十五日通詞から次のことを聞いた。大阪では常食である米の値が甚だ高く、常人は妻子を養うことができず、餓死するものも多い。八十斤の粗悪米一俵の値段が三十匁である。多数の民は奉行邸に押掛けて生存する方法の指示を嘆願したので、奉行は彼らを慰め、急使を出して幕府に報じ、一方大阪城内の米穀及び食料品倉庫を開き、廉價で貧民に分配したため騒擾は鎮まった。

 


96.3.寛永の大飢饉・石見の状況

石見の具体的な被害状況に関する記録は断片的にしかないが、当時の石見銀山関連の歴史的背景や、後の飢饉対策に関する記録からその影響を推測できる。 

被害の概要

全国的な被害の一環: 寛永の大飢饉江戸四大飢饉の一つで、西日本も含む全国規模の凶作だった。

『徳川実記』には全国で90万人近い餓死者が出たという記録もある(ただし、実際の飢餓死者数は過少に報告される傾向があったと推測されている)。

石見特有の状況: 石見国には当時、幕府直轄領の石見銀山があり、多くの山師や労働者が集住していた。

人口密集地であったため、食糧不足は深刻な問題となったと考えられている。 

石見銀山と代官の対応

石見銀山の代官(*1)は、この未曽有の事態に対し、以下のような領民救済策を講じた。 

  1. 幕府米蔵の開放: 領内にあった幕府の米蔵を開放し、領民に米を配給した。
  2. 年貢の減免: 年貢の免除や減額を実施した。
  3. 私財の投入: 代官が私財を投じて救済資金に充てたという伝承も残っている。 
  • (*1)この頃の銀山の代官はつぎの3名が任官していた。
    杉田九郎兵衛忠次  寛永 15 年(1638)~寛永 18 年(1641)
    杉田六之助直昌      寛永 18 年(1641)~寛永 19 年(1642)
    杉田又兵衛勝政      寛永 19 年(1642)~万治 3 年(1660)


これらの対応から、石見においても餓死者や困窮者が多数発生し、通常の行政対応では追いつかないほどの非常事態であったことが伺える。

石見銀山代官所跡>


96.4.邑智町誌

以下、邑智町誌(昭和53年4月30日発行)を参照、引用した。

(*邑智町:現邑智郡三郷町の一部)

 

96.3.1.幕府の代官宛指図

邑智町誌に、「この大飢饉享保の大飢饉の対策として、幕府が寛永十九年五月、天領石見銀山領を含む)各代官に宛て、指図をした」との記載がある。

その指図の内容は次の通りである。

<邑智町誌から抜粋>

   覚
此以前被 仰付候諸法度之儀、弥不相背様に堅可被申付之事
以前に言い渡された様々な法令や規則について、今後ますます違反することのないよう、しっかりと申し付けるべきである


当年より在々ニて酒造り申間敷候、但通之町は各別、併通之者計酒売候て、在々百姓ニ売中間敷候、若売申ニおいては、酒造具不残取可申事
今年から、在々(ざいざい、村々や地方)において酒造りをしてはならない。ただし、通(とおし、特定の町場や指定された場所)は格別(例外)とする。
そして、通(指定された場所)の者だけが酒を売ることとし、在々(村々)の百姓には酒を売ってはならない。もし(百姓が)酒を売ったならば、酒造りの道具を全て没収するものである。

当年は温飩切麦蕎麦きり素麺饅頭等売買仕間舗敷事
今年は、うどん、切り麦、そば切り、そうめん、まんじゅうなどを売買する店を禁止する

当年は豆腐仕間敷事
今年は、豆腐を作ることを禁止する

当年田畠耕作之儀、念を入仕付候様に、面々創代官之内一村切=堅く可被申候事
今年の田畑の耕作については、(領民に)心を込めて作付けさせるように、各々の新任の代官は、領内の一村ごとに徹底して厳しく命じるべきこと

当年は大切之年ニ候、弥百姓をさと遣候ハぬやうに可被申付候、不叶御用之儀於在之は、手形を出し遣、早々埒明、百姓迷惑不致候様ニ、物毎可被申付候事
今年は大切な年(年貢の取立てが厳しい、あるいは重要な年)であるので、ますます百姓たちが苦しまないように、申し付けるべきである。
もし(年貢徴収や公用のために)百姓から物を借りたりする用事がある場合は、必ず手形(借用証)を出し与え、早急に決着をつけ、百姓に迷惑がかからないように、何事も申し付けるように。

在々百姓食物之事、雑穀を用、米おほくたへ候ハぬ様に可被申付候事
在々百姓食物之事、雑穀を用い、米を多く食べてはならないように申し付けること

(略)

御年貢米跡々より如申触候、粗砕無之様=能々念を入、可申付候事
御年貢米は、将来にわたって申し伝えられている通り、砕け米(くず米)が無いように、よくよく気を付けて納付するように命じるものである

(略)

勧進井肴売在々堅入申間敷事
様々な勧進(寺社への寄付集め)や、井戸端での肴(さかな)の販売などを、それぞれの場所で決して行ってはならない
(以下略)

 

96.3.2.農民の移動禁止

さらに、邑智町誌は「農民の移動を禁止した「土民仕置条々」を載せている。

土民仕置条々

一、百姓年其外万訴訟として所をあけ、欠落仕もの之宿を致間敷候、若於相背は、穿盤之上、可行曲事事
一、百姓は、年貢やその他の様々な訴訟を理由にして(居住している)土地を離れ、長期間行方不明(欠落)になっている者を、屋敷に泊めてはならない。もしこれに背いた場合は、(事実関係を)徹底的に調べた上で、曲事(くせごと・重罪)として処罰する。

ー、地頭、代官仕置悪候て、百姓堪忍難成と存候ハ、年貢致皆済、其上は所を立退、近郷に成共居住可仕、未進無之候ハ、地頭、代官構有間敷事
一、もし、地頭や代官の支配・政治が悪いために、百姓が我慢できなくなったと思うならば、年貢を全て納めた上で、その土地を立ち退き、近隣の村にでも居住して構わない。(元の土地の)年貢に未払いがなければ、地頭や代官は(逃げた百姓に対して)とやかく言うべきではない。

 

潰百姓(つぶれひゃくしょう)

先祖伝来の田畑は百姓にとっていのちにつぐ大切なものであるが、命をつなぎ、年貢を納めるためには田畑から家屋敷を手離す他はない百姓が生まれた。

こうして小前百姓の田畑はカのある百姓の手に集ることになり、潰百姓が生れてくるのである。

一地一作人、土地持ちの自作百姓による年貢徴収を基盤とする幕藩体制にとってこれは容易ならぬことであった。

ようやく国内の政治組織が整い、民心も安定しかけた時期に降って湧いた天災であった。

「土民仕置条々」を発した同じ月(寛永二十年三月)幕府は田畑の永代売買を禁止する措置にでるのであった。

田畑永代売買禁止令は、農民の土地を売り払って没落・流民化することを防ぎ、富裕な農民への土地集中を防ぐ目的があった。

 

<続く>

石見の伝説と歴史の物語−259(松平(越智)家)

<浜田城本丸跡地>

 

95.松平(越智)家

松平周防守に代わって浜田に入部したのは、越智松平家の5代目の松平斉厚(なりあつ)だった。

越智松平家は、江戸幕府6代将軍徳川家宣の弟である松平清武を家祖とする。

松平斉厚は館林藩主松平武寛の長男として誕生した。

まもなく父が死去したため2歳で家督を継いだ。

はじめ武厚と名乗り、寺社奉行を務めた。

その後、11代将軍・徳川家斉の二十男・松平徳之佐(のちの斉良)を婿養子(および養嗣子)に迎え幕府との結びつきを強め、家斉から偏諱を受けて斉厚と改名した。

天保7年(1836年)には館林から浜田に移った。

斉良は夭折したため、讃岐国高松藩から迎えた養子の武揚が、天保11年(1840年)12月に叙任する。

松平武揚は天保13年(1842年)7月28日、浜田で死去した。享年16。

しかし武揚に嗣子はなく、通常は末期養子が認められる年齢でもなかったが、御家門ということで配慮もあり、母方の従兄にあたる武成(松平義建の三男)が跡を継いだ。


弘化4年(1847年)11月29日、先代藩主・松平武成(従兄にあたる)の末期養子として越智松平家を相続する。

しかし、この武成も弘化4年(1847年)9月20日に23歳で早世した。

この跡を養嗣子(武揚と同じく母方の従弟にあたる)の武聰(たけあきら)が継いだ。

95.1.松平武聰

武聰は水戸藩徳川斉昭の十男で、第15代江戸幕府将軍徳川慶喜の異母兄弟である。

 

松平武聰は慶応2年(1866年)の第二次長州征伐のとき石州口を担当し長州藩と戦った。
しかし長州藩側の大村益次郎が指揮する軍にことごとく撃破された。

長州軍が浜田領に侵攻すると、7月18日に浜田城に火を放って杵築(現在の島根県出雲市)へ逃亡し、さらに松江に移った。

浜田は長州藩の占領下に置かれたため、慶応3年(1867年)3月、飛地である美作国鶴田(2万石)に逃れて鶴田藩主となり、特に2万8000石に加増される。

浜田は長州藩軍に占領されて廃藩となった。

明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により鶴田藩知事に就任する。明治4年1871年)7月15日、廃藩置県により知藩事を免職となる。明治6年1873年)3月23日、隠居して長男・武修に家督を譲る。明治15年(1882年)11月7日、41歳で死去した。

 

95.2.長州征伐

長州征伐とは、江戸幕府が、京都で禁門の変を起こした長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国長門国へ向け征討の兵を出した事件のことである。

この長州征伐は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり行われた。

 

95.2.1.第一次長州征伐

第一次長州征伐は、1864年(元治元年)に江戸幕府長州藩に兵を送った軍事遠征です。長州藩禁門の変で朝廷に発砲したことを理由に、幕府は征長総督に徳川慶勝を任命し、諸藩に討伐を命じた。

征伐軍は、尾張藩徳川慶勝を総督、越前藩主松平茂昭を副総督とし、薩摩藩など西国諸藩を含む約15万人の兵力で構成され、本営は広島に置かれた。

しかし征伐軍が長州藩領に迫ると、長州藩内では恭順派(穏健派)が主導権を握り、戦争回避のために動いた。

結局、長州藩禁門の変の首謀者とされた家老らを切腹させ、幕府に恭順を誓うことで、直接的な戦闘は回避され、征討軍は撤退した。

95.2.2.第二次長州征伐

第一次長州征伐後も、長州藩が独自の動きを見せ、幕府の統制に従わなかったため、幕府は再び武力で長州藩を討伐し、その権威を回復しようとした。

第14代将軍の徳川家茂自ら指揮官として大坂城に入城し、征伐に臨んだ。

戦いは長州藩の4つの藩境(小倉口、芸州口、大島口、石州口)で行われた。

 

幕府軍薩摩藩が参戦を拒否したため、結束力が低下していた。

また、幕府軍の武器が旧式で、戦意も低かったのに対し、長州藩は洋式武器で武装し、高杉晋作らの指揮のもとで戦力を強化していた。

そして戦闘の途中で将軍家茂が病死するという事態も発生し、幕府軍は統制を失った。

これらの結果、装備と士気に勝る長州藩が各地で幕府軍を破り、勝利を収めた。

この戦いの敗北により、江戸幕府の権威は完全に失墜した。

また長州藩の勝利は、薩摩藩との薩長同盟と相まって、幕府を倒す倒幕運動を決定的に加速させる要因となった。

幕末の動乱と明治維新において非常に重要な転換点となった出来事である。


95.2.3.石州口の戦い

益田市東町に萬福寺という時宗の寺院がある。

本堂は室町時代前期(1374年)に建立されたもので、重要文化財に指定されている。

この本堂の柱に第二次長州征伐石州口の戦いで放たれた、鉄砲の弾痕がある。

萬福寺

<説明板>

  • 弾痕の説明板には、次のように書かれてある。
    第二次長州征伐 石州口の戦い
    鉄砲の弾痕
    慶応二年(一八六六)六月十七日 (新暦七月二十七日)朝、村田蔵六大村益次郎)率いる長州軍が、益田に進軍した。
    本陣を勝達寺(*1)に置き、萬福寺と医光寺の間に布陣した幕府軍(浜田軍・福山軍)と、益田川を挟んで戦闘が開始された。
    双方互角の撃ち合いで午後二時頃は大戦となったが、形勢は次第に長州に傾き、午後五時頃、長州の勝利に終わった。
    その時、長州軍が撃った鉄砲の弾痕が、柱に残っている。
    両軍戦死者のお墓も近辺に散在する。
    その前日、浜田藩士岸静江は、偵察のため領内に入ろうとした長州軍を扇原関門にて一人で迎え討ち、仁王立ちのまま絶滅したと伝えられる。
    七月十六日、最後の防御ラインを突破された幕府軍は、十八日、浜田城に自ら火を放ち敗走した。
    長州軍は逃げる幕府軍を追撃して、大森代官領(石見銀山)を占領した。
    なかなか決着のつかなかった芸州口の戦いも八月八日、停戦状態となり、ついに二十一日、第二次長州征伐休戦の勅命が下った。
    翌、慶応三年の大政奉還につながったのである。
    よって、益田の地を「近代日本夜明けの街」と呼ぶ。

    (*1)勝達寺(しょうたつじ)
    幕府軍の本陣をおいた、勝達寺(真言宗)は今はない。
    勝達寺は、染羽天石勝神社(そめはあめのいわかつ)別当寺として、同社左手後方の高台にあった。
    別当寺とは、神社を管理するために置かれた寺のことである。
    中世では、神道の神様を仏教の仏様が権に現した姿(権現)と考え、神道と仏教を一体的にとらえる神仏習合という考え方が一般的であり、神社と寺院が近い関係にあったためである。
    染羽天石勝神社も当時は瀧蔵権現と呼ばれていた。
    勝達寺は承平元年(931年)に京都から浄蔵大徳が来て創建したと伝わり、全盛期には十六坊の末寺を構えたといい、櫛代賀姫神社(当時は、境内にあった浜八幡の名称で呼ばれることが多かった)の別当寺真如坊も勝達寺の末寺であったという。

    勝達寺は文明3年(1471年)に益田氏の代官として周防国吉敷郡恒富(山口市黒川)の支配を担当していたといい、かなりの組織を持っていたことが伺われる。

    明治に入って廃仏毀釈運動により、勝達寺は長く一体であった神社から分離され、経営基盤を失い廃絶したと云う。

 

幕府軍と長州軍の陣地図>

 

 

益田で浜田藩軍を打ち破った長州藩軍はそのままの勢いで、浜田城を落とし、大森の銀山領に攻め込んだ。

当時、石見銀山には武士は100人足らずで防衛が困難であったため、代官と地役人たちは御用金と重要書類を持って上下代官所広島県府中市)まで逃げた。

浜田・大森には長州藩が進駐した。

その後、石見は長州征伐の影響により、浜田藩の落城と領内の政治権力の空白化、それに伴う治安の悪化、物価の高騰、そして百姓一揆の多発といった深刻な混乱に見舞われるのである。

 

<続く>

 

石見の伝説と歴史の物語−258(竹島事件−(続き3))

 

94.竹島事件−2(浜田町史(続き3))

 

94.5.露見ー所罰

秘密が保たれたこと六年ばかり、天保七年(1836年)になつて、たうとう露見した。

どうしてばれたかと云ふに、當時薩摩が密貿易をやるといふ風聞があるので、其の眞偽を密偵するため、異國の産物に就いて知見の廣い間宮林藏を遣はされた。

どうした都合か道を山陰道にとつて濱田の東一里半の下府に来た時、休んだ家で、偶然、支那と印度との間の邊に産する木を見て「どこで求めたらそんな木があるか」と尋ねたのに「松原の船乗から買うたが、今頃はあるまい。船が歸ると時々ある」と答へた。

「時々ある?怪しいぞ」と頭をちょつと傾けて見たものの、自分の頼まれた以外の事だから深く窮めず、松原に少し當つては見たが、地元は用心も深く、厳しい口止めもあると見えて、一品も見當らず、それらしい事も耳に入らぬ。其の儘九州に渡つて歸りに大阪に寄つて、大阪町奉行矢部駿河守定謙に告げ、濱田地方に氣をつけさせた。

矢部駿河守は、隠密(探偵)を濱田に遣つて探らせて確なる證據を握り、吏を遣つて、八右衛門と三兵衛とを捕縛し、大阪に連れ歸らした。

是より前、三兵衛は敬川・波子の親類を呼んで、かたみの品(異國品でない)を興へ、妻と妻の先夫の子とを橋本の宗門帳(戸籍)から分離して木村を立てさせ、八右衛門も妻に去狀(離婚證)を興へて里長濱の若松屋に歸し、子供竹次郎をば大阪の商人に養子に遣り、下女下男はずつと以前に歸し、家には母と自分だけ居た。

三兵衛・八右衛門共覺悟をして居たものと見える。

  • 清助は、文政二年(1819年)七月二十八日、大阪出帆以來行方が知れず、其の日大じけであつて、多くの難破船があつたので、其の日を死んだ日として、宗門帳を消したまま、歸つて後も訂正しなかつた。

   疲れが出たものか、間もなく死んだから、此の時にはもう居ない。

 

薩摩密偵以後、間宮林藏は官邊の仕事をせず、名を出す程の事もなく、江戸深川で死んだ。

明治になつて樺太探険の功勞で贈位された。

矢部駿河守定謙は、天保十二年(1841年)江戸町奉行となつたが、翌十三年職務上の罪に依て、桑名に禁錮せられ、絶食して死んだ。

八右衛門は、捕へられる日は、ぶらつと濱に出て、漁夫の網を直すのを見て居たが、平生の快活に似ず何となく物憂ささうなので、漁夫連中が「親方、お風が入りましたか」と問ふと「ああ、さうかも知れん」とよそよそしい返事をして居る所を、ばらばらつと出た捕手の役人が、縛らうとした。

「待たつしゃい。母に挨拶してから。逃げも隠れもしませんよ。逃げる様なら船で役人の手の届かぬ所へ飛びますがな。それでは他人に迷惑がかかるかも知れんで待つて居つたのだ。母に一日云ってから、縄を載きませうよ」と凛と言ひ放つた面魂に威壓されてか、一人も手を出す者が無かつた。

網の手を休めて、瞬きもせず見て居た漁夫ども、「なんと松原の男は、ちがうたものだなあー」と思はず感嘆の聲を出した。

かうして、八右衛門が縛に就いて間も無いこと、三兵衛は、いっもの様に藩廳を退いて、朝はよい天氣で雪駄をはいて登廳したから、今は雨がばらつくのに傘もささず、あちこちと飛び飛びに雨の多くかからぬ様に、田町の裏門にさしかかつた時、かねて威張散さず下方に人望ある三兵衛の此の有様を見て「橋本の旦那、傘をお持ちなさい」と呼ぶ者が有つたが「有がたう、もう、ついそこだから」と門を出るのを待つて「御上意」。

門内から縄附を出さぬのは、城主に封する敬意かと、其の時頃の人が云つた。

 

      天保七申年六月

朝鮮國持竹島え致渡海候もの共、今般大阪町奉行(矢部駿河守定謙)より江戸幕府寺社奉行井上河内守え引渡に相成、(老中)水野越前守(忠邦)殿御掛り
              石州濱田廻船問屋、會津屋清助死
           右忰、異名會清事           八右衛門
右は親清助と申もの、先年濱田屋敷用達名絶候處、六ケ年以前、忰八右衛門、願出候儀を、年來親高恩を受、其上多くの御損毛掛置候間、為冥加、濱田沖竹島と申所に魚澤山に付、漁被仰付候はゝ”、年々御運上(税金)可差上旨、江戸表屋敷え願出候處、聞濟(ききすます)に不相成、八右衛門も濱田え御差戻しに相成候處、押而(おしなべて)、在所に而取計候趣、右竹島と申は、濱田沖合之島にて、朝鮮え向寄之島に而、無人島に候間、濱田領より右島え押渡り、日本之刀劍之類其外、魚漁船に積込、漁舟之姿に而、異國人と交易いたし候由、刀剣は江戸發諸國より買集、道中筋は、濱田(藩)用物之會符を相用候。

              捕方遣し、近日着之者共
                      石州濱田罷在候松平周防守家來
                                                         家老     岡田賴母
                                                        年寄      松井圖費
                                   島崎梅五郎
                                                               橋崎百八郎
                                                        右賴母家來        橋本三兵衞
                                                                                     林品右衞門

                     石州濱田中島町玉屋惣兵衞支配借屋
                                                                                   中國屋庄助
                     同 江三東町長門屋像藏借屋
                                                                         播磨屋藤五郎
       江戶橘町刀職、喜兵衞借屋
                                                                         大黑屋定七
       同 富澤町大津屋茂兵衛借屋
                      清 左衞 門
      同海邉堀川町
                     伊勢屋與兵衞
右之者共水野越前守殿より井上河内守江御詮議被仰渡候

大阪町奉行矢部駿河守(定謙)より、(江戸)寺社奉行井上河内守へ引渡相成候名面

      六月十日
       石州濱田松原新田會津屋きく方に無人別に而罷在候
         當時無宿會清事      八右術門
                   三十九
       松平隠岐守御預り所讃州多賀郡小豆島
                   船乘 平助
                   四十九
       右同斷
                    平右衛門
                    六十三
       大阪安治川町二丁目播磨屋善右衞門借屋
                   善兵衛
                   七十      
       松平安藝守領分藝州豊田郡諸口島松原
                  新兵衛
                  三十七
右於井上河内守宅、同人申渡之。
一通尋之上、人牢。


六月十四日
       松平周防守家來
                    大谷作兵備
                    三村 五郎右衛門
                   村井获右衞門
右於井上河内守宅、同人申渡之。
一應尋之上、揚屋へ遣す。

昨十三日、私家來大谷作兵衛・三村五郎右衛門・村井荻右衛門と申もの、井上河内守尋有之候間、同道人差添差出可申旨に付、差遣候處、尋之上、吟味中揚屋へ申付候段、家來之者に今日申渡有之候間、此段御届申上候。
                             以上

六月十四日            松平周防守
右書面、御用番水野越前守殿え差上之。

 

七月九日
      吟味中
      石川日向守え御預け
                 大谷作兵衛
                 三村五郎右衞門
                 村井荻右衛門

        吟味 中
        伊東播磨守え御預け
                   八右衛門
                   平  助
右井上河内守宅に於て、同人申渡之。


私家來八十郎隠居岡田秋齋(賴母事七十四歲)松井圖書(三十四歲)と申者、早々呼出着次第、可申開旨、井上河内守より家来の者ともえ、相達候に付、去月九日、急飛脚を以て申遣候處、同二十一日濱田表に相達、則夫夫出府之儀申付け、同二十七日出府之積りに御座候處、秋齋儀は二十五日より中暑、圖書後は二十六日より腹痛熱氣强、兩人共出府難相成、其内少々快候に付、押而當月朔日兩人共出府之積り、夫々用意仕候處、去月二十八日夜半頃、秋齋儀自殺仕相果申候。
圖書儀同月二十九日哺(ゆうがた)是亦自殺仕相果候と申出候に付、早速役人共差遣相改候處、相違無御座旨、濱田表より急飛脚を以て申越、昨午刻(正午)相達候に付、秋齋・同書所疵所改書付、岡田八十郎・圖書右隠居遊山口上書いたし差出候に付、相添、河内守え相申候。依之(これにより)此段御申上候。以上

 

七月十九日          松平周防守

右は御用番伯耆守殿、御掛り加賀守殿に差出候。

松井圖書の自殺を二十九日晡とある。哺は申の刻(午後四時)或は七つさがり等いひ、晩方である。
濱田の傳説では二十九日の曉といふ。


94.6.最後の判決

申十二月二十三日(天保七丙申年、紀元二四九六)

死罪  
   石州松原浦無宿            八右衛門
   松平周防守家來岡田八十郎召仕     橋本三兵衞

預置木品其外取上げ 
中追放
   大阪安治川町南二丁目           吉兵衛
   新戎町                  源蔵

・中追放:重追放と軽追放の中間の追放刑。罪人の田畑や家屋敷は没収され、犯罪地、住居地、および一部の地域(武蔵、山城、摂津、和泉、大和、肥前東海道筋、木曽路筋、下野、甲斐、駿河など)への立ち入りが禁じられた。また、住居地や犯罪地への立ち入りを禁じる場合もあった。

 

軽追放大阪三郷都構
江戸払い
   橘町                  定七
                       庄助

・軽追放:追放刑の中で最も軽いもので、犯罪者の故郷や犯行地、および江戸十里四方、東海道筋、日光など特定の地域への出入りを禁じる刑罰。

・大阪三郷大坂城下における3つの町組の総称。北組、南組、天満組の3組から成る。


役儀取上げ
押込    
   松平周防守家來 家老          松平亘
   宗對馬守家來              松村但馬

 

・押込:武士や庶民を自宅(または自室)に閉じ込め、外部との出入りや通信を禁じて謹慎・幽閉させる刑罰の一種。

 

押込
   松平周防守家來勘定頭         大谷作兵衛
          元メ役         三澤六右衛門
                      島崎梅右衛門
                      谷口勘兵衛
                      三宅辨柄齋

酒代取上げ
急度叱り
   新戎町               平蔵
                     彦兵衛
口銭取上げ
急度叱り
   富田屋町              清右衛門
                     利作
急度叱り   
   松平周防守家來岡田八十郎召仕    杉浦仁右衛門
   松平周防守家來南安右衞門名代    吉江秀右衛門

過料三貫文 
   石州松原浦             きく

構無
   松平周防守家來           大岡權左衞門
                     林品右衛門
                     大塚鐵藏
                     齋藤與左衞門
                     樽崎百八郎
                     松井荻右衞門
   增山河內守家來             大森許容
   大阪海邊堀川町             與兵衛
   同 天滿一丁目             嘉兵衞
            讚州小豆島船乘                                             重助
                                                                                      平右衞門
           藝州諸口島船乘                                              親兵衛

 

・構無:特にお咎めなし


右於評定所、一座、掛り井上河内守・筒井伊賀守・御目附水野采女立會、河内守より申渡之。

  • 豫審と判決とで、肩書や名の違つたのがある。肩書の身分は、累を廣く及ぼさぬ考で、わざと替へた證據のあるのもあるが、名はどう云ふわけか分らぬ。

松平元周防守 改下野守
其方儀、元領分石州松原浦に罷在候八右衛門、竹島え渡海目論見之儀、家來共聞請、彼是取計候儀は、不存由に候得共重を御役中(幕府の老中)之儀、領分取締向等、別面厳重に可申付處、無其儀、既に八右衛門其外之もの共渡海いたし、右體家來共不届之取計いたし候を更に不存罷在、殊に松平亘より、宗對馬守記録書抜き一覧に差出候節、何故右島穿聲に及候哉之段、相糺候心附も無之、不東之事に被思名候、依之永蟄居被仰付候。

右松平周防守へ、大目附村上大和守相越し、下野守に申渡候。
阿部能登守、鳥居丹後守立會。


松平周防守康年は、國漢の學にも通じ、永く幕府の老中を勤めた程の英才であつたが、かうした都合で、隠退塾居し、其の嗣康爵時、周防守に任じ判決以前天保七年九月、奥州棚倉に移封せられ、上野館林から松平右近將監齊厚、濱田城主として入部せらる。

 

94.8.竹島事件の餘韻ー幕府全國へ禁令

         天保八西年(1837年)二月二十一日
今度、松平周防守元領分石州濱田松原に罷在候無宿八右衛門竹島に渡海いたし候一件、吟味之上、右八右衛門其外夫々巌科に被行候。

右島、往古は伯州米子のものども、渡海、魚漁等致候得共、元禄之度朝鮮國え御渡しに相成以來、渡海停止被御付候場所に有之、都而異國渡海之義は、重き御制禁に候條、向後、右島之義も同様相心得、渡海致間敷候。(注1)

勿論國々の廻船等、海上に於て、異國船に出會ざる様、乗筋(抗路)等心がけ可申旨、先年も相觸れる候通り、爾(いよいよ)相守、以來は可成丈、遠沖乘(遠洋航海)不致樣、乘廻可申候。

右之趣、御料は御代官、私領は領主・地頭より、浦方・村・町共不洩樣、可觸知候。

尤、板札に認め、高札場等に掛置可申もの也。

岡田賴母の墓は浄土宗長安院に在り、蛭子町の上小丘、岡田氏墓域内向つて正面に「大量院秀譽業山長卿居士、天保七丙申六月二十九日、岡田氏源元善墓」と刻す。

後衛は棚倉から武州川越、それから東京に移つた。

 

(以下略)

 

(注1)下線部分現代語訳

「右の島(竹島(現在の鬱陵島))は、往年は伯州米子の人々が渡海し漁労等を行っていたが、元禄のときに朝鮮国に渡した。

以来渡海停止の場所である、全て異国渡航は、重大な禁制である。

これからも、右の島もどうようである。渡海せぬように。」

 

幕府はこの鬱陵島について朝鮮側と所有権を交渉したようであるが、決着がつかかなったため、渡航を禁止したようである。

現在このことを根拠の一つとして韓国側は竹島(当時の松島)の領有権を主張している。

(現在の鬱陵島

(現在の竹島

八右衛門は竹島鬱陵島)に行って、竹木を伐採し、海産物を持ち帰ったと伝えられている。

上2つの写真を見れば、現在竹島には竹木を伐採し、持ち帰るほどの樹木などは育っていない。

やはり、往古にいう竹島は現在の鬱陵島を示す、というのが正解であろう。

 

 

幕府の鎖国政策はいつまでも続かなかった。

これから16年後の嘉永6年(1853年)にペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航するのである。

 

<続く>

 

石見の伝説と歴史の物語−257(竹島事件−2(続き2))

 

94.竹島事件−2(浜田町史(続き2))

 

94.4.八右衛門の發憤

「南風が寒い。そんな馬鹿な事が有るものか」と一笑に附された清助の漂流物語を、「まだ見ぬ海の彼方には其の様な所があるかも知れぬ。

いや必ず有る。無ければ燕が往来せぬ筈ぢや。燕について行けばきつと其處に行かれる。

我が父は虚言をいふ人で無い」と堅く借じた八右衛門は、どうかして遠洋航海の資を得ようと心配した。

が、どうも雲をつかんだ様な話では、人が資本を投じない。

そこで何かの手がかりもと、海の中をさがすうち、さがし當てたのが竹島(蔚陵島ウルロングドウ)であつた。

時は、いつかといふに、其の年に生れた竹次郎が、天保七年(1836年)に十三歳だから、八右衛門が、竹島にはじめて行つたのは、文政七甲申(1824年)の年である。

これで少しの手がかりは得たものの、南風が寒い證據には少しもならぬ。

そこで渡邊華山が世界の地理にくはしいと聞いて、尋ねて見ると、横文字の本を出して説明してくれたので、あらまし分って、其の様な所があるといふことだけは分つたが、まだ充分腹に入りかねる。

それで又華山の教に従つて、青池林宗の萬國地誌を見て、赤道から南の國では、北風が温暖で、南風が寒冷なことが分り、父の行つた島や國が、どの邊であるかも想像することが出来た。

それらの地から、尚ほ未知の地までも行つて見たいが、さ様な事は、おくびにも出さず、ただ「竹島に渡つて自然の儘に放任してある竹木を伐採り、海産物を取つて藩の利益を謀り、父が損亡をかけた償とし、かねて家名の挽回を志す」といふことを、藩中で地位あり其の上膽の太い家老岡田頼母に打あけて、資本を得ようとしたがだしぬけには話されぬので、先づ岡田家老のお氣に入りで、藩の勘定方に居る橋本三兵衛に相談した。

三兵衛は濱田領内敬川村の大百姓橋詰(千代延氏)、平右衛門の三男で「資性豪放、而も細心の注意を缺かず、奇想天外より墜つるが如き意見を吐くが中にも、綿密なる調査成算ありて空想に馳せず、初め家老岡田賴母の家士となり、算筆に達し且つ才氣あるを愛せられて、藩の勘定方に進みし者」といふ男らしい男だ。

八右衛門は色の浅黒い、威あつて猛からず、うんと反張れば誰でも共の威に壓(圧)され、下手に出れば滴る愛敬、目を細くして笑へば女がほれ、目をみはつて笑へば男がほれる人相。

それに熱識が籠つて居るので、持掛けられた相談は、誰でも、ようはねつけぬ有徳な人物。それに見込まれたは同氣相求むる快男子橋本三兵衛。

「日本中の何領にも属せぬ所は、やはり外國だと幕府できめられると、首が飛ぶ仕事。なんぼう儲かつても首が無うては役に立たぬではないか」稍乘出しながら、半ば冷かす様にいふ。

八右衛門は益々眞面目に「私の今迄見ました地圖では、竹島(蔚陵島)に、何國の領分の色も、塗つたのがありません。朝鮮の江原道の色も、慶尚道咸鏡道の色も塗つてなく、只白の儘で置いてあるのを見ると、所属が無いと思はれます。

其の所属の無い島から産物を持歸つて國益を計るのを、幕府で罪せられる氣づかひはないではありませんか。

お國のためを謀つて、それで罪せられるなら、どうせ一度は死ぬる命、喜んで首の臺に坐ります」と、八右衛門の心腸は鐡石よりも堅固である。

「たしかに、さうぢやの、まさかの時に取消ししは叶はぬが」

「はは、清助の枠は男で御座る」

「よし、家老殿に取次がう」

牛市蘇鐵屋敷一夜の密談は、順調に運んだ。

三兵衛は、機を得て岡田家老に話した。

岡田家は三千石の一家老で、六萬千石の殿様にはちと過ぎた祿を頂戴して居る家、代々人物も出て、先祖竹右衛門は、大石良雄の母方の叔父であることは、良雄の遺言状で世に知られて居る通り、當主賴母は本居宣長の門人で國漢の學に通じ、書畫(書と画)にも巧であつた。

三兵衛の話を聞いて、なほよく竹島の所属を取調べるがよかろうと、濱田の家老松平亘と宗對馬守の家來松村但馬と、江戸在勤中から懇意なので、松平亘の添書を以て松村但馬に頼入り、宗家の朝鮮に關する書物一切を渉獵(あちこちを歩き回り、広い範囲で探し求めること)し、其の上で様に伺ふことにして、三兵術・八右衛門に、尚一名を副へて對馬に渡らせた。

此の一名は最後まで秘せられて居るが、岡田の家士杉浦仁右衛門であつたといふことだ。

取調べの結果は、古來朝鮮の書に、于山島鬱陵島、尉繚島とは別の島、現在の竹島に当たるとの説があるが、この島が実際にどの島に当たるかは分かっていない)無人島・蔚陵島など域は名を書き、或は無名で、地圖に載せたものはあるが、近くの道の色を塗つた物の無いことは、八右衛門の言葉の通りであつた。

それを報告したので、岡田家老は、年寄(役)松井圖書に相談の上、江戸在勤(幕府の老中)中の殿様に伺つた。

藩主の仰せに「竹島一件は重大なる事なれば、能々取調べて申立つべし。尚又許可無き内に渡航して、異國品の一つにても、大阪以東に来ることあらんには、一大事にいたるべければ、此旨をも心得べし」とあつたから、岡田家老は八右衛門を呼出し、上意を傅達して許可なき旨を告げ(表面)て退かしめ、さて其の夜、四人ひそかに頭を集め、大阪以東の語の反面に、無量の意味深長な所があるではないかと、得手に忖度して、茲に密航は黙許せられた。

時は天保の初年1830年である。

北前船

初めは、本當に竹島に渡つて、大きな竹や珍しい木やでつかい鮑などを持つて歸つた。

 

<八右衛門 朝鮮・中国・東南アジアと交易>

斯うして好奇心をそそるうち、毒食はば皿までと、三兵衛も同意の上、日本刀を持つて行つて、朝鮮人支那人と交易し、進んで台灣・交趾ベトナム北部)・安南ベトナム・呂宋(フィリピン)、進んで椰子の薬そよぐ南洋の島々、父清助の手柄話のスリの海(スルウ海峡)闘鶏(暹羅(タイ))南瓜(カンボヂャ)相撲取らうスマトラまで押渡つたが、ヤワと思はれる瓜哇(ジャワ)には、和蘭の役所があるといふので、露見を恐れて行かなかつた。

又、パツパの島はついぞ見なかつた。

パツパはパプアであらうか、それなら方角がちがふ。

からした異域の珍しい産物を持歸つて、中には多少加工して、密かに賣つて巨利を得、藩にも莫大な運上と稱へて利益を差上げ、開係者も随分儲けたのだ。

江津の釜屋(飯田氏)五島屋(藤田氏)都野津の油屋(森本氏)も、資金を出し、時々交つて渡航もして、大變な分け前を得たと、明治維新後になつて、生湯(うぶゆ:浜田市生湯町)木挽が物語つた。

 

<続く>

石見の伝説と歴史の物語−256(竹島事件−2(続き))

<弁才船 葛飾北斎 富嶽三十六景 上総ノ海路>

94.竹島事件−2(浜田町史(続き))

 

94.3.八右衛門の父清助(続き)

清助は、濱田藩の廻船御用を勤めるので、藩の半紙・鐡・鋼等を積載せて、度々大阪に上り、時々江戸にも往復したが、文政二年(1819年)秋、紀州沖で暴風に遭つて破船し、満載して居た御用の貨物をも全部海中に沈めてしまつた。

船員の多くは難死したが、清助は運よく、怒濤の中で船板の破片に取り乗り、大海の中を漂って、一つの島に着いた。

 

<清助、オランダ船で東南アジアの各地を回る>

其の島には鳥が澤山居たので、其の鳥を捕つて肉を食ひ、皮を多く集め縫ひ合せて、小舟を造つた。

舟の骨には時々流れ寄る難破船の板や木をつかひ、小さいながら柱を立て、鳥の皮の帆も用意した。

舵や櫓も出来た。

自分の着物も鳥の羽や皮でこしらへた。

紀州沖から南へ南へと漂うた氣がするので、南風が吹いて北へ北へと流されたら、日本のどこかへ着くものと考へ、數日の天気と風向きとを測り、命の親の鳥の島を出帆した。

だが、お椀の舟より稍勝つて居る位の皮舟で大洋が航海出来るものでもなく、風も強過ぎず弱過ぎず丁度よい方に向けて吹くといふ註文通りに行くもので無く、だからと云つて、此の儘絶海無人の孤島で果てる氣にはなれず、人事を盡して運をば天に任せて大洋を航行といふよりも漂うたのである。

食物は充分用意して居るが、風や天氣が何より氣づかひの種であつた。

運のよい者は、あくまで運がよいのか、木の葉に蟻が乗りうつるやうに、うかりうかり漂うて居る所を、異國船に救はれた。

それが誂へ向きに、日本と交際して居る和蘭(オランダ)の船であつたとは「自ら助くる者をば天亦助く」か。

今は日本へ向ふ時で無いが、行く時には連れ届けてやるといふ意味を、手眞似・身振・筆談等取交ぜて、えいやらやつと通じた。

和蘭船はパツパパプアニューギニアといふ島に行つた。
其の島の人間の髪は、我々の様な長い澤々(つやつや)した髪でもなく、和蘭人の様な大波を打つた縮髪でもなく、天竺人の様な螺髪でもなく、ただ生えたまま上に向立つてふわふわして居り、體にはふんどしの外何も着てない。

それからスリ(現在のセラム島のことか?)といふ島の間のスリの海を通つた。

そこで海賊船に遭うた。

遭うた許りでなく、海賊に乗込まれた。

海賊船は大きくなく、大將は船に残つて指揮して、部下を我船に來させた。

其の時清助は、ひそかに一刀をふんどしに差込み、敵船の下を潜つて敵船の後に出て、大将が一心に和蘭船の方に向いてちんぷんかんぷん命令してゐる後から上つて、ただ一撃の下に斬倒した。

船に残つて居た二三の部下の中には、手向つた奴もあったが、清助は多少劍術の心得もあるので、彼等は斬殺されるやら、大怪我をするやらで、大聲あげて、和蘭船に乗移つて居る朋輩に知らせた。

そこで海賊共は、取る物も取敢へ、皆々海に飛込んで逃げた。

これ全く清助の活動に依るものと、これから和蘭船の船長以下船員が満助を尊信すること甚しく、甲必丹(カピタンポルトガル語)清助と云つた。

甲必丹とは頭とか船長とか大将とか云ふ意味らしく、船中では船長の外には使はぬ敬稱である。

其の敬稱を清助に奉つた。

それからヤワ(ジャワか?)といふ國に行つた。

其の國には、和蘭人が澤山居り、和蘭の役所もあり、長崎よりにぎやかな處もある。

其處で清助はあちこちと招待されて厚い待遇を受けた。

鳥の羽の着物で堂々と歩いてやつた、と歸朝後満助の自慢話。

ヤワの近くに、地続きではないが「相撲取らうスマトラ」といふ國がある。

其の國の人は、體が大きくて力も強いが、智慧は少いらしい。

詞は一切通じぬ。

和蘭人の通事(通辯)で、日本人清助と相撲取らうといふことが分つたので、とつて見たが、清助が負けた。

それは相撲の方法規則が違ふので、あちらでは、倒れても轉んでも、ぐんにやり手向ふことが出来ぬ様になる迄は勝負がつかぬのだ。

尤もぺつたり胸腹を地に附けて馬乗になられると、まだ元氣はあつても負になる。

かう云ふ相撲で、勝手が分らぬので清助は困つたと云ふ。

 

<清助帰国する>

それから、南瓜カンボジア・闘雞(軍鶏(シャム(タイ)))・留守(呂宋(フィリピン))・高砂(台湾)等の國々島々を面白可笑く巡航して、日本の長崎に歸つたのは難船から三年たつた文政五年であつた。

和蘭船が、長崎港外に来て、まだ日本の水先案内や検視の役人が来ぬ時、清助は眞裸で海に飛込み泳いで港外近くの浦に着いた。

昔から「裸で道中なるものか」といふが、清助は、それから濱田まで、實際裸で長の道中をしたのだ。

何故さうしたかと云ふに、漂流人を救助して連れて来た外國船も、中々面倒な長い間の取調べを受けねばならぬし、漂流した人も、切支丹宗(基督教)に染つて居りはせぬかといふ試験を何箇月も受けねばならぬ窮屈手數があるので、一舉ざんぶり、それらの面倒を水に流したのだ。

<浜田城下町絵図>

船出してもう三年、何の音沙汰の無いのを見ると、いかに辛抱強い者でも待ち切れず、船頭以下船子一同死んだものとあきらめて、三年の法事をするものやら、何回忌と云ふこと無く、唯何と無しに、とむらひをするものやら、とにかく、一人も生きて居ようとは誰も思はなかつた。

そこへ、ひよつこり眞裸の清助が歸って來たので、途中の人は清助と氣附く者もなく、何處の雲助のなぐれ(落ちぶれること)かと思って見過ごす程のことで、家にたどり着いた。

歸つて見れば家はあることはあるが、内外の様子がひつそり閑と人気も無い位。

家は元の家だが、あの様な事から身上を畳んで他に移つて、人が代つて居るのかも知れずと、清助は我家ながら暫く入りかねて居たが、思ひ切つて入って見ると、一人の婦人がけげん(怪しんで変におもうこと)顔でこちらを見る。

紛れも無い我が女房のきく。

清助は嬉しさに

「歸つたよ、わしだよ」

と疊みかけていふ。

きくは驚いて、脊戸(家の裏口)を向いて

「八や、お父さんがお歸りになつたよ、八や」

と婦人のたしなみもあらばこそ、大聲にあわただしく叫んで、さて夫に取すがつて

「おまめ(元気)でございましたか、あゝ嬉しうございます」

と、あとは泣くのみ詞が無い。

其の内に八右衛門や嫁が脊戸から戻り

「お父さん御無事で」

と親子互に手を執つて男泣き。

「遭難以来お前達に大層心配をかけたのう」

「いや私にかひしよがありませんのでお父さんの身上ありたけ、有る様で無いのが金とやら、皆で六千七百二十両、お上に差出し、五十六人の船子の遺族二百餘人、くらしが立つ様にして下さいまして、甚だ畏れ多い申分ながら、其の残りを以て、お上様の御損亡の幾分のお足しにして下さいます様と願ひ出ましたので、此の家屋敷は下げ渡されました次第。御見變へなさる程のさびれ方暫く御こらへ下さいませ」

と八右衛門が言へば、清助は

「伜出来(でか)した、女房ようした。嫁にも随分不自由をさせたのう。だが、みんな嘆くな。土産はえつと此の中に」

と胸を叩いて快活に反身になつて見せる。

一同は

「なんの土産が入りませう、おからだ一つが、何よりの」

と、泣いたのはどこえやら、皆笑つた。

「嫁はめしうたけ、わしや衣装支度、枠や水汲め湯を沸かせ」

と、おきく婆さん大はしゃき。

近所近邊聞いてびつくり見ておつたまげ、輪に輪をかけて、濱田洛中の大評判。

卽日、八右衛門から、書面を以て、藩廳に届出た。

  • 廻船御用相勤め候ひし私父清助儀今日素裸にて立歸り申候處、遭難之際驚愕心仕候者と相見え取も無き事のみ申候に付、同人出頭難為致候。鎭魂仕候上は私同道出頭可仕候。

數日の間は親類縁者其の外心やすい者の見舞よろこび引も切れず、殊に船子の遺族は、自分達關係者の事を問ふけれども、何分一寸先る分らぬ暗黒激浪怒濤の中で分れたことであれば、他人の事など一切知らう筈なく、唯自分一人の冒険奇談を話すばかりであった。

其の話の中に、南風が寒く北風が暖かな國のある事があつた。

それを聞いた當時の長袖連(知識階級)の學者・醫者・神職・僧侶などが

「南風暖を吹くといふことは和漢を通じてであるが、北風が温暖だとは日本・唐・天竺の書物に無い。其の様な事があり得よう筈が無い。北風は凛烈に相場がきまつて居る。氣ちがひのたわことを本氣で聞く者も馬鹿だ」

と一笑に附した。

なる程さうかなあと、今まで珍らしがつて聞いて居た大衆は、七十五日立たぬ間にぱつたり噂をせぬ様になつた。

 

<続く>

石見の伝説と歴史の物語−255(竹島事件−2)

会津屋八右衛門碑近くの駐車場に案内板と絵馬掛所がある>

会津屋八右衛門碑への入口付近の説明板>

94.竹島事件−2(浜田町史)

竹島事件は、那賀郡誌、島根縣史、浜田町史などに同じようなことが記載されている。

なかでも浜田町史には、これらのことが長文で詳しく記載されており、しかも講談調の文章なので面白い。

以下浜田町史(昭和十年(1935年)一月六日発行)より抜粋

 

94.1.竹島(蔚陵島)事件

天保七申の年(昭和十年が百年目になる)(1836年)に、濱田松原の船乗が、竹島(今の島根懸の竹島で無くて朝鮮の蔚陵島)に往つて、竹木を伐採り、海産物を持歸つたと云ふ事が、徳川幕府の引込政策(鎖国政策)に反くので、今津屋(會津屋)八右衛門と橋本三兵衛とは江戸に引かれて斬罪、藩士二人切腹、殿様は奥州棚倉といふ交通不便な地へ轉封となり、幕府から日本全國に「石州濱田領で斯く斯くの事があったが以後遠沖乗をせぬ様に、又異國船に出會はぬ様に心掛けよ」といふ厳しい御布令と立札が出された程、日本中を驚かした大事が起つた。

これは表面の事で實は印度支那半島から南洋邉を乗廻り、貿易をしたのである事は、ヤシの實に南洋風の彫刻をしてある物や紫檀黒檀タガヤサン等の遺物や、話の中に出る地名で知れる。

引込時代(恐らく鎖国のことを指しているのか)の人間八右衛門が、如何してそのやうな大きな事、悪く云ふと大それた事、よく云ふと大發展・大冒險・祖先の再現した様な日本男子的な活々した仕事をしただらうか。

それを知らうと思ふには、どうしても、彼の先祖と、彼の父と、彼を育てた當時の濱田松原の境遇と彼の天性とを知らねばだめだ。

94.2.八右衛門の先祖

八右衛門の先祖は奥州會津に居た平家の一族長井八郎重利入道妙傅といふ者で、宗家(總本家)の命で、豊後國の平家の莊園を守つて居たが、重盛が支那へ使を遣る時、上乗として今津の港から船出した。

使命を果した後は今津に住着いて居た。(此の今津は豊前のか筑前のか傳に無し)子孫一代替に八右衛門、助右衛門を稱へた事がつづいた。

宮方・武家方取合の砌(みぎり)南北朝吉野朝廷時代)九州の宮方と石州の宮方と交通したので、一家一門船乗を業とする關係上、船を仕立てたり御使になったりして、石州九州を往復した事が、度重なつた。

それで、其の間の船路は夜でも分る様になつた。

潮鶴(鹽津留)氏を盟主として、二百二十二艘の船が、朝鮮・支那・中國・北國を乗廻はし、商業を盛にやつた時、長井・安武等二十二氏は石見國に住む事になつた。

  • 長い安竹やすらに住んで、末は二十二家繁昌する。
    船津・九十九・福浦・福島・板屋・日足・濱崎・岩竹・曾根の若松。
    稙田・本田・中田・島田に寒田・佐田・敷田・石田に原田・稗田よ。

一旦濱田に住んだが又九州に歸つた者、或は濱田から九州に往つて住んだ者などが、濱田何某、濱田屋某と稱へ、筑前筑後肥前邊に多い。

長井氏は、濱田の松原に住んで城下町時代になっては今津屋と稱へた。

それが清助の代寛政・享和・文化・文政頃になつて、今津屋が松原の町に四軒、浦に二軒、辻町に一軒、濱田浦に一軒、長濱にも一軒といふ様に澤山あつて、つい今津屋と云つたのでは迷ふ事がある様になつた。

それでずつと先祖の地名を探つて、會津屋と改名したが、今津屋で永く通つて名高い家なので、誰も新しい名を云ふ者無く、奮い名の今津屋で通つた。

他國では却て會津屋或は會清も通つたが。

 

 

94.3.八右衛門の父清助

今津屋は代々船乗だが、清助は、藩の回船御用を勤めるので、大阪江戸へは、毎年何度も往復せねばならなかつた。

大きな藩は産物が多いので船が大きくて、小さな藩は産物が少いから船が小さいことは、普通當然と見てよい。

濱田領の船も(無論清助の船も)御多分に漏れず、至つて小さかつたので、大阪の港あたりでは、石見のチャンコ丸と云はれたものだ。

「負けるといふこと」「ようせぬ(出来ない)といふこと」の嫌ひな清助に取つては、それが腹が立ってくやしくてならなかつた。

「藩は小さうても殿様は天下の御老中、體は小さうても清助の膽(きも)は太いぞ」「まあ待て、うら(乃公(おれさま))がそちどらの膽を冷してやるから」と、下山ゆるぎ(地名:浜田下山の麓の東北松原湾に面した所)で、二千五百石積の大船を造ることにした。



天草亂の以来千石船まで公許(公認)したが、追々ゆるんで當時表面千石船と云って黙許したので、加賀では、そろつと二千三百石の船を造つて居た。

だから清助は加賀船以上の二千五百石をもくろんだのだ。

それが出来上って二千四百石であつたとか、二千八百石であつたとか色々傅説はあるが、慥かな事は分らぬ故、専門家の目論見(設計)の二千五百石を本當として置く外は無い。

清助が負嫌ひの證據の一つに、彼の作つた歌がある。

  • 乗合船での國自慢 江戸は東の都とて 町さへ八百八町あり。
    京都は流石千年も 天子のおはす所故 由ある宮寺數多し。
    奈良も昔の都にて 名所舊跡いと多き 中にも名高き大佛の、
    鼻の穴には笠が入る。 そこで濱田の自慢には 西の方には千小路。
    東の端には五萬堂 蛭子(えびす)鼻にはアラ再々 船が入る。

百萬石の加賀船にも勝る大船を造つた清助の喜びは、他人のわれ等が察しても胸がすく程せいせいする。

そこで、船隆乗初(進水式)と云って、にきやかな式があつた。

前から随分評判が高いので、濱田領内は元より、津和野領・銀山領・藝州・長州邊からも、其の盛儀を見に来た。

編纂者の曾祖母(大島きぬ)は周布の者で、まだ濱田に嫁入らぬ前であつたが態々見に來て、づぬけた大きな船、山なす人を見たが、特に記憶に存して何時でも眼前に浮ぶのは「清助の妻のうちかけ姿と船の名を刻込む所が白の儘であつたこと」だと云つた。

 

  • 浜田町史の編纂者の曾祖母(嫁入り前)が船の進水式を見学したとある。
    船が出来上がったのは文化13年(1816年)頃として、嫁入り前とあるからその曾祖母の当時の年齢は15歳前後であろうか。
    そうするると浜田町史が発行された昭和10年(1935年)には曾祖母は134歳となるので、さすがにもはや鬼籍に入られているはずである。
    この曾祖母の言葉は、その娘や孫が話し伝わったものと思われる。

 

船の名は乗初までに必ず彫刻するのが通例で、式の時におほふてある幕を除いて、何丸といふ名を見せる刹那が親衆の胸をどきどきさす場面である筈だ。

それがぬきだから、観衆はあつけにとられた。

此の大船に、なぜ船名を附けぬかと云ふには、深い譯がある。

附けぬのでなく、實は「石見丸」としたかったのだ。

所が其の時頃の慣例で、國名は一國全部を持つ大名の領下でなくては附けられぬ。

石見國には、濱田領の外、東に銀山領(天料)西に津和野領があるので、「石見丸」とは附けられぬことになつた。

それで、清助は負惜みに「こがあな(このような)船は、日本中どこにも無いけえ(ないから)、名を附けるにも及ぶまい」と、何といふ名も附けなかつた。

文化の終(紀元二四七七、昭和八年が百十七年目)頃、大阪港に乗込み「これ見てくれい。チャンコ丸の枠にこがあな大けな息子が生れた」と得意の鼻をうごめかしたのに、大阪人が「あんた、見やはつたか、とてつも無い船がおますが。それがけったいな、船の名がおまへん」「さいだすか、そりや阿房丸や」と、はやしたて、たうとう、阿房丸にしてしまった。石見の阿房丸の名は、天下に響き渡つた。

愚と評しようか賢といはうか、清助は自分の信ずる方向にまつしぐらに進航した。

<弁才船 葛飾北斎 富嶽三十六景 上総ノ海路>

清助は、濱田藩の廻船御用を勤めるので、藩の半紙・鐡・鋼等を積載せて、度々大阪に上り、時々江戸にも往復したが、文政二年(1819年)秋、紀州沖で暴風に遭つて破船し、満載して居た御用の貨物をも全部海中に沈めてしまつた。

船員はどうしたか、多くは難死したであらう。

清助は運強く、怒濤の中で船板の破片に取乗り、大海の中を漂うて、一つの島に着いた。

 

<続く>